今日の一言
never give up!
打ち砕かれそうな時も
消えて無くなってしまいたい時も
心が寂しくなった時も
明日には
いつかには
貴方を想う人が
貴方に必要な存在が
現れて
生きてても良いんだよ
生きて欲しいんだよ
生きてるだけで幸せで居られるんだよ
生きてる事が愛おしく感じるよって
言ってくれる人が現れると思います
そして、私がそう思いましょう
学生指導をして
今回は、過去に若輩者ながら看護師を目指すたまごの実習指導を私自身が指導者となって実習指導した際に感じたことを書きたいと思います。
精神疾患を患っている人達に共通する一つの点において考えました。
人生経験をする機会がとても少ないということ
それは何においても経験をする機会がとても少なく、知識を得る体験も少ないことです。
そう、何かを獲得する機会や学びを得たり、自分自身で体感したり感情の揺れ動くことが比較して少ないのではないかと思いました。
人生を歩む上で、健常者とそうではない方では
道に違いが生まれてくるもので、
障害の重症度によっては
学校の学級が変わっていたり、障害を持つ方専用として作られた学校に行く事もあるかと思います。
中でも、学校という形のもと勉強だけでなく、食べる寝るなどの生活も同じ場で過ごしていくような場所もあります。
もう少し見方を変えれば、障害の程度が重度であればあるほど病院が生活を送る主たる環境にならざるを得ない場合もあります。
多くの人達ないし障害を持たない人は
生まれて保育園もしくは幼稚園で初めて
集団生活を知り
小学生、中学生、高校生、大学生、大学院生、専門学生などなど
沢山の環境を経て、社会や学問について学ぶ中で他者との関わり、自分自身という存在についての問いや確立をしていくのでしょう。
しかし、こうした環境下で生活を送る機会が少ない場合やこれらの環境から隔絶した世の中で生活を送る方にとっては
経験自体に大きく差がつくことになることは容易に想像できることと思います。
様々な創意工夫がなされて今の世の中がある上で、この事に一石も投じられていないと言うには語弊があるでしょう。
ただ、ここに一つの壁もしくは見えない何か隔てるもの、道筋が変わってしまう選択など
そうした何かしらの背景があるのだと思います。
スタンダードやノーマルなんて言葉は
無論不必要なのかもしれないですね。
学生と学生が担当した患者さんとの関わり合いを見ることによって俯瞰的な第三者視点での経験がこのように感じる機会を生み出したのかもしれないですね。
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「学びを得るというのは、如何に自分自身が意識的に起こる事柄から新たな発見を得られるか」
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人に与えられた特権
生き物の中で唯一言葉を持ち、豊かな表情で感情やその時の状態を表すことが出来ます。
今の世の中では、コミュニケーションと言えますね。
コミュニケーションには、大きく分けてバーバルとノンバーバルがあります。
バーバルコミュニケーションは、言葉による意思疎通の方法であり、ノンバーバルコミュニケーションはボディーランゲージや表情によるものと言えます。
こうした中でも言葉を用いるコミュニケーションは人間だけに与えられた特別なもの。
だから、ちゃんと話そう
だから、ちゃんと言葉で伝えよう
だから、ちゃんと正しい言葉で伝えよう
って思うんです。
話しても伝わらない事があるのだから
言葉にして伝え続けなければ、伝わらないのはずーっと変わらない
そして何より、人を苦しめる言葉を使って乱暴な自分の気持ちや考えを伝えるのはするべきですか。
そんなこと言わなくても分かってほしい
人を言葉で傷付けるのは、ナイフで人を指しているのと変わらない
自己主張と大抵の人は、個性だと大抵の人は言うのだけれども。
そんなのは、自分の恥ずべき最低の行為を正当化するものでしかない
本当の自由とは自分らしさとは
そんな歪んだものではないはずだ
生きて汚れた自分を本当の自分だなんて言うのは、それはもう人じゃない
心からじわーっと湧いてくる暖かい気持ちを言葉にして欲しい
言葉が人に与えられた特権なのだから
COVID-19
誰かが言った。
「外出自粛に何の意味があるの。」
「そんなことしたって外に出る人は出るのに。」
「ほら、公園に親子、家族がわんさか休日のテーマパークみたいだよ。」
「いっそのこと今までと同じ生活のままで良いじゃない。」
「もしも感染して死ぬことになっても、それはそれで人生なんだよ。」
「人間が生きてきた歴史の中にある疫病と一緒で、淘汰あるいは人間がやってきたことのツケが回ってきたんじゃないかな。」
「人間が増えすぎた。そういう暗示なのかもね。」
「命の危険を感じるなら、可能性のあることを一つもしなければ良いのに。」
「買い物には行くし、健康のためって散歩もするし。」
「子供が見ててかわいそうだからって外へ遊びに行くんでしょ。」
「テレビだって見てみてよ。ニュース番組は何で人がスタジオに居る状態で放送続けているの?」
「見えてないだけで、画面の外にはカメラマンやお偉いさん達も居るなら、接触に繋がる可能性を上げてるんじゃないのかなー。」
「統率の取れない縛りを作っても根本の解決にはならないのにね。」
対応はいつも遅い
ならば先手で策を打てばいい
やり過ぎた時は反省を活かして次に繋げればいい
人の生き死にに遅いなんてことはない
今、人の行き交いが緊急事態宣言を受けて数日後期待する数値ほど低くはならずとも
確実に減ったと見受けられる状況から約2週間
それまでひたすらに急増していた感染者数が減りつつある
それでも死者数は400人ともなろうとしている
著名人が亡くなり、高齢者や子供と言った免疫弱者がこの脅威にさらされてしまった
妊婦が感染、出産した子供とも会えない時間が続き
青春時代を過ごすはずだった学生はその日々を奪われた
未来の人生を託すはずだった社会人のスタートも今までの努力と共に無くなった
そんな色々なものを奪った今
正しいことが出来ない人間達に生き残る道は見えてくるでしょうか。
バランス
生きてるってことを素晴らしいことだと思おう。
そうしたら、聴こえてくる音も感じる環境も見渡す世界も触って思う安心感も味わいたい味覚も全ては自分の受け止める深い深い不可いものの中に住んでる応え(こたえ)にしゃんと居るから。
革新的問題解決法極意
それは、前に突き進むということ。
なんだか精神論みたいで嫌気を感じるかもしれないけれどそういうものなのですよ。
結局のところ。
自分の問題なのであれば、なおさら。
行動で変化をし続けるということが解決の糸口になる。
それでは過去の根本的な解決にならない場合があるじゃないかと言えることもあるでしょう。
そうですよ、おっしゃる通りです。
問題は解決するために考え方を変えるか行動を変えるか、ぐちぐち悩んで問題をそのままにしておくことしか選択肢がないと言っても過言ではないかなと思います。
現実に変化をもたらすためには、やはり行動が必要です。
あくまでも解決法についてなので、本当に解決をしたいと思っているのであれば、ここでは自分がどう感じていてどう思って考えていて、それを理解してくれるかどうかは必要ないです。
もちろん、気持ちを受け止める段階は必要です。
でも、受け止めているだけでは先がありません。
だからこそ、行動するっていうのがとても大切になってくることと思います。
行動をするあなたにエールを
ふれーふれー!
自己否定に始まり他者否定に終わる
これは精神科で勤めているとたくさんぶち当たる場面というか体感すること。
まず精神科の患者さんは自己効力感が低い。
自己効力感ってのは、自分を認めることとか自信そのものである。
だから、
「私なんて…」
とか
「自分はダメなんです。」
って言葉は良く聞くワード。
でも、これが病気の症状となるとガラリと一変する。
「◯◯が自分に悪さをしている。」
「◯◯が自分に抽象的な噂を言ってる。」
「あの人が自分に対して酷い事を言った、やったに違いない。」
と。
これは、病気における思考の変化によって起きる事が多い。
こうして他者否定が始まる。
そうして自己否定にまた繋がる。
そんなサイクルをひたすらに繰り返す。
そうしているうちに、自己否定も他者否定もがんじがらめにしたみたいにガッチガチの固定観念へと移行する。
時間の経過と体験の経過とともに強化されていく思考。
いつの日にか他人はおろか自分ですら信じることが難しくなる。
そんな状況に日々対峙していく。